16ページ目~生きることを諦めた後に生きる今~

「みかんさん!分かりますか?病院ですよ!」

目を開けた時に天井で眩しく光る電球。

その時私は、「死ねなかったんだ」と思うと同時に、勝手に涙が出た。

 

3月3日、正午。

私は死ぬことを決意した。Amazonで買っていた道具が届くと、すぐに準備をして、実行した。

Amazonで注文した時の気持ちはと聞かれると、何も無かった。ただいつの間にか購入していた。

煉炭自殺に睡眠薬を追加して、眠っている間に死のうとしていた。だけど、失敗した。

睡眠薬の効くタイミングと、練炭に火をつけるタイミングが上手くいかなくて、最初が少し苦しかった。

段々意識が朦朧としていく中で、私はなぜか携帯で119を押していた。その後、「119番です。救急ですか。消防ですか」という男性からの声を聞いた後に意識が無くなった。

その後の記憶は、恐らく救急車の中。強く肩を叩かれ、男性が何か大声で喋っていた。その後、また意識が無くなって、次の記憶は病院。動脈注射の痛みで目が覚めた。その時に、自分は自殺を失敗して病院に運ばれたんだと、すぐに状況が分かった。

 

動脈注射と酸素マスクと管を入れられた後、私は処置室から救命救急センターに運ばれた。その時も意識は朦朧としていて、1人の看護師さんが「患者さん入られます。19歳の大学生です」と言った後、別の看護師さんが「19歳…若いな。どうしてこんなことを…」というやり取りが少し聞こえた。

救命救急センターに居た時の私は、右手は動脈注射、左手は水分補給の注射、両足は24時間動くマッサージ機、口は酸素マスク、下半身はオムツと管。腕の周りには色んなコードが巻かれていた。数時間おきの血圧、脈拍、血液検査。熱も中々下がらなかった。(コロナでは無かった)

 

約1時間煉炭を吸い、一酸化炭素中毒を起こした意識不明の状態で運ばれたそうだ。

医者や看護師からは、「一酸化炭素中毒を起こしていて数値も高く、あと少しで本当に危険な状態だった」と何度も言われた。

だけど、今の私に残ったのは、"死ねなかった"それだけだ。

こんなことを聞く失礼な人間では無いけれど、心の中では思った。

"どうして助けたのか"と。

なんで119を押したんだと、強く自分を責めた。

 

その日は声が出せなくて、誰とも話せなかった。話したくなかった。家族も、病院からの連絡で駆けつけてくれたが、顔すら会わせたくなかった。こんな惨めな姿を、見せたくなかった。

1人きりになる夜は、涙が止まらなかった。今も、思い出すと泣いてしまう。

 

入院して次の日には一酸化炭素濃度も低く、落ち着いていて、その日の夕方に退院出来た。

1泊2日しかしていないが、とある看護師が「大丈夫?」と私に聞いた。私は頷いたが、それと同時に「うん、大丈夫じゃないよね」と看護師が言った。その看護師に、ありがとうも言えないまま退院した。

私の家族が迎えに来てくれて、しばらくは姉の家にお世話になっていた。

周りの人間は、私に"どうしてこんなことをしたのか"と尋ねることは無かった。気を使ってなのか、必要以上の会話もしなかった。

 

そんな時、私の心を癒してくれたのは、5歳の姪っ子だった。

久しぶりに会えたのがこんな形になってしまったのは申し訳なかったけど、姉が姪っ子に「しばらくみかんはうちにいるよ~」と言うと、恥ずかしげにすごく喜んでくれた。

だけど、一緒に遊んではくれるが、お風呂も歯磨きも一緒に寝ることも、私とはしないと言った。

どうして?と聞くと、「みかんちゃんは今元気じゃないから、元気になったらしてもらうの!」と言っていて、本当に、この子は優しくて可愛くて、まだ小さいのに心配をさせてしまって、自分が情けなくて涙が出てしまった。

 

県内でも有名な精神科病院に紹介状を書いてもらい、その病院の通院日までは姉の家でお世話になり、数日後、精神科病院に行った。

1時間の診察をした後、任意入院で入院することになった。その為に様々な身体検査をした。その時、1年ぶりに体重を測ると、1年で20キロも痩せていた。食べるものが無かった時期やストレスが関係していたのか。自分でもびっくりしたし、姉家族からも心配された。

そのまま閉鎖病棟で10日間を過ごした。途中から部屋から出られない、携帯が使えないなどのストレスが出てきて、主治医からの許可ももらえて、閉鎖病棟からストレスケア病棟に移動出来た。

ストレスケア病棟は、認知症の高齢者だけでなく、仕事で疲れたような中年男性女性や、春休みを使っての入院か、学生等の若い人もいる。

 

一酸化炭素中毒になった人は、1~2ヶ月後に脳の一部などの容態が悪化することがあるため、毎日数時間おきの血圧と脈拍を測ることが欠かせない。

右手首の動脈注射の痕、血管の内出血の黄色いあざは1ヶ月は残ると言われ、最近は右手首がたまに痛む。

痛みを感じる度に、あの日のことを思い出してしまう。死ぬことを決意したはずなのに、今を生きている。自分の中ではすごく色んな感情がごちゃ混ぜになっていて、上手く表現が出来ないし、伝えることが出来ない。

 

少なからず思う人はいるだろう。

"どうして自殺なんかしようとしたのか"と。

結論から言えば、大学中退と恋愛のいざこざだ。

本来ならば、中学二年生の時に死んでいるはずだった。

私はずっと、学生生活が辛かった。過去のブログにも書いてあるが、私はいじめ、セクハラ、体罰、差別、パワハラ、たくさんのことを学校で経験した。

小学一年生の時に受けた体罰から、私の楽しくない学校生活は始まっていたのかもしれない。

大学こそはと、たくさん頑張って合格し、期待を膨らませて入学をしたが、半年でパワハラを受け、退学を決意。

テレビをつければ、合格し喜ぶ生徒たちの姿、SNSを見れば、卒業、入学の写真。見る度辛くなった。

大学を退学することにしたと伝えると、周りから嫌という程言われた「もったいない」の言葉に、毎日憂鬱だった。親にも、病院の先生にすら言われ、誰も私の辛かった気持ちを理解しなかった。

もったいないと自分でも分かってる。貧しい家庭に生まれて、大学に行けると思ってなかったのに、推薦や学費免除で安い費用で大学に行けられた。たった半年だったけど、色々と勉強することが出来た。それには本当に感謝している。でも、もったいないのに退学せざるを得ない状況下だった私のことを、誰1人配慮してくれなかった。

 

私には、心から大切だと思う人がいた。

詳しくは綴らないけれど、その人と関係を断ち切った。

今回の件に関するのは、関係を断ち切った後の出来事だった。最後だからと、「今までの不満を全て言わせてもらう」と、私が号泣していたのに不満の言葉は止まらなかった。「もうやめて」という私の言葉を聞き受けず、私はずっと責められる言葉を受けた。

また、SNSを開けば、向こうの親しい人らが「あの女と別れてよかったんじゃないか」等と私を批判する言葉が耐えなかった。

別れるきっかけとなった理由は、全部が全部私ではなかった。関係を断ち切って、私は新しい人生を歩んではなかったが、向こうは向こうなりに歩んでいた。もうそれでいいじゃないかと、そう思った。だけど、自殺を試みる前日まで、好きという言葉を言われたり、毎日電話がかかってきたり、私は、毎日が辛かった。

必要事項の確認があったため、連絡手段を遮断することが出来なかった。だが、その必要事項以外は連絡をしてこないでほしいとお願いしていた。それでも、生きているかの確認が目的か、暇だったのか、毎日電話が鳴り響いていた。

 

大学でハラスメント問題となった教授が、講義中にとあることを話した。

"私は、誰かから相談を受ける時、必ずお金を取ります。スクールカウンセラーや学生相談室など、無料で話を聞いてくれる施設はありますが、私からしたら考えられません。人に相談をする時、聞く側にもストレスはかかります。それなりの報酬を得ないといけないのです"と。

私はこの言葉を聞いた時、今まで自分が相談していた全ての人達に"申し訳ない"という感情と、"もう誰にも相談出来ない"と心の扉を自分で閉めてしまった。

それがきっかけで、心療内科や友達にさえも、何も話せなくなって、誰かに話を聞いてもらいたいはずなのに話せなくて、数ヶ月間辛いことをどんどん溜め込んでしまった。

 

その結果起きてしまったのが、今回の煉炭自殺だった。

 

今回私がいけなかったのは、誰にも相談しなかったことだと言われた。だけど、私の悩みや相談は決して誰かに話すことで解決する内容でもなく、私の事情もあった為、知らないから言えるような言葉や浅はかな聞き手の意見は逆効果でもあった。だから、私は自分一人で考えて、自分なりの行動を取り、何かあっても自分が責任を取ればいいのだと、"自分一人で"という考えに染まっていた。

だけど、今回の煉炭自殺や入院を経て、その考えが変わった。

決して誰もが、人の相談を聞いてストレスが溜まることや疲れてしまうわけではないということ。人の相談を聞くことが好きな人もいる。最初から話すことを諦めるのは違うなと、気づくことができた。

心と体の回復や今後のこと、まだまだ時間はかかるだろうが、少しずつ、ゆっくり、頑張っていこうと思う。

 

明日が来るのが怖い今日、生きることを諦めたのに生きる今日を、今日も生きているんだな…と思わずに、生きていて良かったと思える日が来ることを、密かに願っている。